優しい人の処世術

世の中には「優しい人」が沢山います。しかし、不幸な事に優しければ優しいほど彼らは他者から傷つけられ思い悩むという結果に落ち入ってしまっています。その状況を打破するために私の考える心構えを記載したいと思います。


恐らくほとんどの日本人は義務教育期間中に「人に優しく」と教え込まれた事だと思います。確かにそれは正しい。素晴らしい教えです。ただし、それが全ての子供にキチンと教えられたとは言えないでしょう。
世の中には悲しいことですが人を人とも思わぬ「優しくない人々」が存在します。
彼らは他者に対して人権を認めていません。他者の人としての尊厳を踏みにじっても良心の呵責を覚える事がありません。なぜならば彼らが蹂躙するものは彼らにとって自らと同じ人間ではないからです。
人間は人間以外のものに対してはどこまでも残酷になれます。牛を殺し、血を抜き取り、皮を剥ぎ、肉を切り刻み、パックにつめ、陳列し、焼いて、食べます。そのくらいの事は誰しも平気で行います。なぜならばその対象が人権の認められた存在ではないからです。牛がいくら苦しもうが私たちには関係のない事です。どのような人間も飢えから逃れるためならば牛に地獄の苦しみを与える事が出来ます。それをしても誰からも罰せられません。ならば人は生きるためにそれを行います。
「優しくない」人々にとっての人間とは「優しい人々」にとっての家畜程度の価値しかありません。「優しくない人々」にとって他人とは自分が生きるための糧であり、踏み台です。ですから彼らが生きるために他者を冒涜するのは至って自然な行為なのです。
そして、悲しい事に「優しくない人々」の餌食になるのは決まって「優しい人」です。「優しい人」は他人を傷つけません。反撃をしません。だから「優しくない人々」は「優しい人」を攻撃します。「優しくない人々」にとって「優しい人」は格好のストレス発散道具…要するにサンドバックなのです。


なぜ「優しくない人々」が「優しくない人々」として育ってしまったのかについては色々な理由が考えられますが、それについては学者さんに任せたいと思います。「優しい人」にとって重要な事は「優しくない人々」が少なからずこの世に存在する事を自覚する事です。
そして「優しくない人々」に優しくするするのをやめることです。「優しくない人々」に優しくしても彼らはそれに対して何の感謝の念も抱きません。それどころか優しくされた事に味を占めた「優しくない人々」は「優しい人」を徹底的に利用するようになるでしょう。ですから「優しくない人々」に優しくしてはいけません。「優しくない人々」に優しくするのをやめれば彼らは「優しい人」を利用価値のない人間だとして「優しい人」から離れていきます。それを寂しく感じてはいけません。「優しくない人々」も同様に「優しい人」には利用価値のない存在だからです。「優しくない人々」は「優しい人」に何のメリットももたらしません。そんな関係は断ち切ってしまいましょう。


「優しくない人々」には優しくしない。「優しい人」には今まで通り優しくする。それが私の考える「優しい人の処世術」です*1

*1:それでも「優しくない人々」に関わりたいという「優しい人」は「優しくない人々」に戦いを挑まなければなりません。そして「優しくない人々」の人間性を根幹から変え、彼らを「優しい人」へと変革させなければなりません。これはただの「優しい人」には出来ない事です。「優しい人」かつ「力のある人」でなければ実現できません。過去、それを行う人々は自らを聖職者と呼称し、子供たちに教育を行っていました。今は存在しないその人々はそう呼ばれるほど尊く、難しい所業を行っていたのです。それは「処世術」の範疇を越えています。ですので今回のエントリではそれについては割愛させていただきました。