世界はそれを議論と呼ぶんだぜ

自分と異なる意見を表明する人に会うと、どうも感情的に反発してしまい「その人の考え方」ではなく「その人自身」を批判してしまいがちです。今回はそれを防ぐための考え方について記述します。


物事を円滑に進めるためには「和」が大切だと言われています。「みんな仲良く、円満に」が標準的な日本人の考え方なのでしょう。確かに、私もその考え方は基本的に間違っていないと思います。「仲良く」するためにはお互いがお互いを信頼する必要があり、人類全てが人類全てを信頼する社会。それは全ての人類にとってとても住みやすいものとなるでしょう。すなわち、究極的な理想として「みんな仲良く」は素晴らしい標語となりうる可能性が高い。
しかし、「みんな仲良く」するための方法論というものについて考えると、これは非常に難しい事なのではないかと思われてなりません。

「出る杭は打たれる」ということわざがあります。
出る杭…すなわち多数派の意見に対してそれとは異なる意見を述べる者。その者は安定していた社会*1に対し揺さぶりをかけます。その者は当たり前の常識に対して疑問を投げかけます。これは、それが起こった場合の状況をメタファーにより表したことわざです。

  • 「外国人に参政権を与えるべきだ」
  • 派遣労働者の地位を向上させるべきだ」
  • 「お金を稼ぐ事は悪い事なのですか?」


基本的に人は変革を嫌います。揺さぶられる事を嫌います。だから、出る杭は打たれるのです。出る杭が存在しなくなれば、すなわち揺さぶりも収まります。ある価値観に支えられた安定した社会に戻ります。
安定した社会はそこに住むものに安心感を与えます。そこはその社会に順応した者にとっては非常に住みやすい世界です。そこでは「和」が保たれています。同じ価値観に支えられた人間同士がお互いにお互いの考え方を信頼しています。それは当然です。同じ価値観の持ち主同士なのですから、そもそも疑いようがありません。

しかし、実際のところ、その「和」は本当の意味で「他者を信頼しあった結果生まれた和」ではありません。「他者」…すなわち「出る杭」を排除した結果、生まれた「和」に過ぎません。それは「みんな仲良く」ではないのです。出る杭が仲良く出来ていないのです。

そして、もっと言ってしまえば本当は個々の人間同士は全て他人です。よって、本当の意味では全ての人間が「出る杭」なのです。同一の存在などこの世には存在しません。しかし、表面上は人はそうではないように振舞います。争いを、変化を恐れているからです。
変化を避けるために「出る杭」は自らの意見を殺し、多数派の意見に迎合します。そうして日本社会では偽りの「和」が蔓延する事になるのです。

このような場では誰の価値観が多数派になるのか? それはその場において最大の力を持つ者の価値観です。強い者とその価値観に迎合する人々によって作られた安定した社会。確かに一見してそこには「和」が存在するように見えます。争いは起きません。しかし、その社会は「みんな仲良く」していると言えるのでしょうか? 私はとてもそうとは言えないと考えます。その社会は「力」に支配された、「力」を持たざるものにとってとても生き辛い社会です。そこに「信頼」などは存在しようがないでしょう。

異なる価値観を持つ個人が「信頼」しあうためにはどうすればいいのか? そのためにはお互いが変革しあうしかありません。Aという価値観とBという価値観をぶつけ合い、お互いが納得するCという価値観を作り上げるしかないのです。確かにそれを行うためには一時的に争いが発生します。波風が立ちます。涙を飲む人が生まれるかもしれません。しかし、その争いの後には「みんな仲良く」する事が可能な社会が生まれるはずです。そこには「和」が存在するはずです。

全ての人間は出る杭です。力に迎合するのはやめましょう。変革を恐れるのはやめましょう。衝突は必ず発生します。それら全てを受けいれましょう。その先には今よりも多くの人々が生きやすさを感じる社会が作り上げられるはずです。

*1:本文の社会とは「複数の人間によって構成される場」を指します。よって、例えば男性Aと女性Bのカップルなども本文においてはひとつの社会と認識されます。