なぜ「さみしさ」なんて感情が存在するのか

mellowmymindさんが「さびしさ」についての日記を書いていた。(さびしさの運用について)また、ここ何年か色々な本やブログなどで「さみしさ」*1に関する話題を目にする事がある。それについて私の考えをここに記す。

人は社会的な動物だという。
不勉強ゆえに今の私には動物学や社会学、心理学的考察の上に成り立つであろうその概念を学問的に完全に理解する事は難しいが、「人は一人では生きられない」という言葉として表せば、これを常識として自然に受け入れる事は出来る。
しかし、なぜ人は一人では生きられないのであろうか。肉体的には十分な栄養と十分な休養さえあれば*2、天寿を全うする事は可能なはずだ。そういう意味では人は一人で生きていけるはずなのだ。
しかし、現実にはそうではない。いや、中には完全に孤独な状況に対応できる仙人のような世捨て人だってどこかにはいるかもしれないが、一般的にはそうではない。なぜか?
だって、一人きりでいる事はとてもさみしい。人とコミュニケーションが図れないなんて、イヤだ。
例えば、あなたがせっかくシコシコと頑張って書いたブログにコメントやトラックバックはおろか、一人の閲覧者すらいない状況を考えてもらえばこの「さみしさ」は理解してもらえると思う。
しかし、なぜ人は「さみしさ」を感じるのか。「さみしさ」を感じたくないから人は他者とコミュニケーションを取る。それは強制的と言えるほどの欲求だ。この「さみしさ」さえなければ前述した通り、人は一人で生きていけるはずだ。
人と、社会と関わるのは煩わしい。楽しい事だってたくさんあるが、煩わしい事だって同様に多い。ならば最初から人と、社会と関わる事を避けようとする人間が出てきたって不思議ではない。そうやってNEETや引きこもりになった人もいるのではないか。そんな人にとって、「さみしさ」というものは最大の敵だ。精神、肉体を共に蝕む病魔だ。これさえなければ…一人で生きていけるのに…
逆説的な発想かもしれないが、私はここにこそ「さみしさ」が存在する意義があるのではないかと思う。
「さみしさ」を感じなければ、一人きりで孤独に生きていく人間は社会の発展に応じて増加する*3だろう。そうすれば社会が破綻する可能性がある。そもそも、人は異性と交わらなければ子を、種を保存する事すら適わないのだ。それは恐らく人間という種の本能から逸脱する行為である。
さて、そろそろ結論といこう。
人は一人では生きていけない。それは種族として宿命付けられた事である。だが、個としての人間は時に他者を避けたがる。それが増加すれば種としての人間が絶滅する恐れがある。「さみしさ」はそれを防ぐための盾である。種としての人間が自らの存在を維持するために個としての人間に振りかざす最強の矛である。これに個としての人間が抗おうとしても、無駄だ。人間は個であると同時に種の一員なのだから、片方が片方に抗うなんて、それはまさに矛盾。それは苦しさを生み出すだけだ。「さみしさ」は受け入れるしかない。で、あるならば「さみしさ」から逃れるためにイヤイヤ他者と関わるよりも、自ら積極的に他の楽しさを感じるため*4に他者と関わった方がいいのではなかろうか。私はそう思う。


※追記
あぁあ、なんかまだはてなのシステムがよくわかんないから色々いじくってたら、自分の日記にはてなスターをつけてしまった。凄く恥ずかしい。これ、消せないのかなぁ…。

※さらに追記
おぉ、はてなスター消せるようになってるじゃん。というわけで消した。

*1:個人的に「さびしさ」より「さみしさ」の方が馴染み深いので、この日記では「さみしさ」に統一します

*2:現実的に人間一人ではそれすらムリな事はこのエントリの論点とズレるので度外視で

*3:本当はここら辺も詳しく論じる必要があるのだろうけど、この問題は私の手に余る。誰かやって下さい^^;

*4:愛とか友情とか、そういうヤツ